工費1.6兆ドルが8.8兆ドルに膨らんだ——The Line停止の構造的必然
サウジアラビアの旗艦プロジェクト「NEOM」の中核をなす「The Line」が、2025年9月に工事を停止した。全長170km・高さ500m・幅200mのミラーガラス製直線都市として計画されたこの構想は、2045年までに900万人を収容する「石油後の国家」の象徴だった。しかし現実は冷酷だった。当初5,000億ドルとされた工費の試算は最終的に8.8兆ドルへと膨張し、プロジェクトを支えるパブリック・インベストメント・ファンド(以下、公共投資基金)は2025年に8,000億円規模の評価損を計上した。
工事が止まった背景には3つの構造的問題が重なる。第一に、原油価格の低迷だ。ブレント原油が1バレル60ドル台で推移するなか、石油収入に依存するサウジ財政に余裕はなくなっていた。第二に、外国投資家の招致失敗だ。誰も「砂漠の中のSF都市」への投資を確約しなかった。第三に、物理的な建設難易度だ。170kmの直線構造を砂漠に建設するコストは、どの試算も想定を遥かに超えた。2024年11月にはナドミ・アル・ナスル最高経営責任者が退任し、後任のアイマン・アル・ムダイファー氏が「経済合理性」を基準にした全面レビューを開始した。
元記事・原文引用
元ネタ:Saudi Arabia’s latest Neom pivot: Data centers(The Real Deal / 2026年1月26日)
“Neom sits on the Red Sea, offering access to seawater cooling, abundant land and cheap renewable energy — fundamentals that matter more to hyperscalers than mirrored skyscrapers in the desert.”
NEOMとはなんだったか——ムハンマド・ビン・サルマーン皇太子が国家を賭けた構想
NEOMは2017年、ムハンマド・ビン・サルマーン皇太子が発表した脱石油後の国家再設計プロジェクトだ。サウジ・ビジョン2030の目玉として、紅海沿岸のタブーク州に「ゼロから設計された都市」を作ることが目標とされた。中心構想のThe Lineは「交通渋滞のない直線都市」として設計されたが、その異様な外観から当初より「実現可能か」という疑問が絶えなかった。
実際、50億ドル以上を投じて建設に着手したものの、170km全体の完工見通しはなく、2026年段階でも「試験区間」が砂漠に部分的に姿を現した程度にとどまる。スキーリゾート「トロイエナ」も2029年冬季アジア大会の開催地を返上することが決まり、NEOM全体が規模縮小を余儀なくされている。公式には「戦略的規律」と表現されているが、現地メディアからは「失敗の言い換えだ」という批判も出ている。
「夢の都市」が去った場所に残ったもの——AIデータセンターへのピボットが意味すること
The Lineが縮小・凍結される一方で、NEOM当局は別の賭けに出た。2025年、データセンター開発企業DataVoltとの50億ドル契約を締結し、NEOM内のオクサゴン工業地区にAIデータセンター施設を建設することで合意した。さらにNvidiaから1万8,000基のH100・Blackwellクラスの人工知能向けGPUを確保したとも伝えられている。
この転換には地理的な論拠がある。NEOMは紅海に面しており、海水冷却システムを利用できる。広大な土地と安価な再生可能エネルギーも揃っている。データセンターの運営効率において「冷却コスト」は最大の変数のひとつで、世界約8,800のデータセンターのうち約7,000が気候効率の悪い地域に立地しているとされる。ミラーガラスの摩天楼を建てる場所として不向きだった砂漠の熱は、海水冷却によって「強み」に変わる可能性がある。
「石油の後」ではなく「AIの前」に飛び込んだ——世界のデータセンター争奪戦との接続
サウジアラビアのこの転換は、孤立した決断ではない。2025年11月、サウジ外相ファイサル・ビン・ファルハーン王子と米国のマルコ・ルビオ国務長官は「戦略的AI提携協定」に署名した。先端半導体の供給、AI応用開発、インフラ構築、人材育成を柱とする包括的なパートナーシップだ。米国はサウジ国営AIスタートアップ「HUMAIN」への最大3万5,000基のNvidiaチップ輸出を承認し、これは以前は許可されていなかった対湾岸諸国の先端半導体輸出解禁を意味する。
日本でも生成AIブームを背景にデータセンター需要が急拡大しており、政府が誘致支援を強化している。サウジが実証しようとしているのは、「中東という高温の砂漠地帯でも海水冷却と再生可能エネルギーを組み合わせればデータセンターの競争力を持てる」という新しい立地論理だ。このモデルが成功すれば、AIインフラの「非先進国への分散」という流れが加速する可能性もある。
「都市として失敗した場所がインフラとして成功するか」——The Lineが問いかけるもの
NEOMは「石油後のサウジ」の象徴として登場し、「SF都市の夢」として世界の注目を集め、そして「財政現実との衝突」を経て「AIデータセンター基地」へとピボットした。この一連の転換を「失敗」と呼ぶのは簡単だ。50億ドル以上を費やした工費と、5兆円を超える公共投資基金の損失は、政治的にも財政的にも重い事実だ。
しかし別の見方もできる。大量の資本と土地と電力インフラを投じて砂漠に整備したこの場所は、たしかに「人が住む都市」としては機能しなかったが、「AIが処理を行う場所」としての条件は揃えつつある。脱石油を目指した国家プロジェクトが、石油に代わるエネルギーである「AIの計算資源」のハブへと転換されようとしている——この逆説的な構図は、AI時代の地政学を考えるうえで示唆的なケーススタディとなるだろう。「夢の都市」が去ったあと、その跡地で何が生まれるかは、まだ答えが出ていない。
参照・原文リンク
- The Real Deal:Saudi Arabia’s latest Neom pivot: Data centers(2026年1月26日)
- XenoSpectrum:サウジ、全長170km「The Line」計画を大幅変更——「AIデータセンター要塞」へピボットか
- Arab News:Saudi Arabia and US sign ‘Strategic Artificial Intelligence Partnership’


